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2008年10月07日

シマと偉人

こんばんは!sakuですおすまし

日曜日には今帰仁フィールドワークへ行ってきたんですが、

なんとびっくりカメラ忘れてしまいました・・・がーん

一応、一緒に行ったメンバーがケータイで写真撮ったので、

後日それをアップしてもらおうと思いますタラ~


さて、今日は「シマと偉人」について話したいと思います電球

名護博物館の前に座している銅像をご存知でしょうかはてな

有名な名護親方こと程順則の像です。

『六諭衍義』を中国から持ってきた人ですね本

彼が持ち帰った『六諭衍義』は江戸幕府の徳川吉宗に献上され

日本全国、広く普及したそうです。

また、彼は有名な新井白石と対談したそうです。

そんな名護市民のヒーローですが、

彼は名護出身ではありませんびっくり!

では、なぜ彼は名護市民のヒーローになったのでしょう!?

名前がたまたま「名護」さんだったから・・・ってわけではありません。


事の真相は・・

確かに彼は「名護」さんですが、彼は名護間切の惣地頭(領主さん)だったんですびっくり!!

当時は「間切(まぎり)」という行政区に分かれていました。

(現在の名護市は名護間切、羽地間切、久志間切の三つに分かれていました)

1728年、彼は名護間切の惣地頭職を授けられます。

地頭になると間切の行政に関わるので、

1734年に亡くなるまで、名護の村々を闊歩して視察したはずですダッシュ


さて、琉球の偉人はみんなどこぞの地域とのつながりを持っています。

その多くは出身地かあるいは名護親方のような地頭地とのつながりです。


しかし、多くの偉人たちが地域とのつながりを語られずじまいです。

たとえば、かの有名な具志頭親方こと蔡温。

蔡温も程順則のように具志頭間切の惣地頭なので、

もちろん具志頭とのつながりも数多くありました。

しかし、現代の具志頭村民(今は八重瀬町ですがタラ~)の

何パーセントがそのつながりを知ってるんでしょうかはてな

具志頭出身の友達が、『具志頭村史』にも蔡温出てこないよと嘆いてましたうわーん

組踊の創始者である玉城朝薫こと向受祐や、補唇術の高嶺徳明、通訳の牧志朝忠だって、

それぞれ、玉城間切や高嶺間切(現在は糸満)、

真和志間切牧志村(現在は那覇)にゆかりのある人物ですびっくり!!

せっかく良いアピールポイントあるのにもったいないと思いませんか~はてな


文責:saku


タグ :名護歴史

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Posted by シマミグイ at 19:23│Comments(0)日常
 
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