2010年05月27日
行政区分
こんばんは。sakuです。
更新がまた滞っていました。すいません。
さて、かなり私的なことで申し訳ないんですが、
先日、インターネットラジオ番組(USTREAM配信)の
OUR OKINAWA~わったーばんどー!!~さんに出演してきました。
準レギュラーとして沖縄の歴史や文化についてお話することになったのですが、
5月25日放送では、5月20日が那覇市制89周年ということで
那覇市や沖縄の行政区分に関する話をしてきました。
準備段階では何も考えていなかったんですが、
地図を見ながらじゃないと理解しにくいことを
ラジオでネタにするって無謀ですね。
ラジオなめててすいません。
さて、そういうことでツイッターでも分かりにくいという意見を受けまして、
この場を借りて補足用の地図を載せたいと思います。
※急いでスキャンしました。本当はイラレで作りたいんですけどね~。時間が・・・。
で、ついでにシマミグイブログの記事にもなるよう解説も付けたいと思います。
■昔の海岸線について
百聞は一見にしかずです。
1700年ごろの那覇の海岸線
沖縄の土木遺産編集員会編『沖縄の土木遺産』ボーダーインク、2005より
同じ範囲で現在の地図(Yahoo!地図)と比較
■間切(まぎり)について
間切とは、古琉球期から1908年(明治41)に「沖縄県島嶼町村制」が施行されるまで続いた
沖縄独自の行政区画単位です。
日本国に各都道府県(埼玉県、茨城県、千葉県など)があるように、
アメリカに各州(ワシントン州、カリフォルニア州、テキサス州など)があるように
琉球には各間切(浦添間切・北谷間切・名護間切・今帰仁間切など)がありました。
そして、その各間切の中に各村(浦添間切だったら安波茶村・小湾村・屋富祖村・内間村など)があるという感じです。
この各村々なんですが、古琉球期から戦前にかけては
ドラクエの世界をイメージしていただければいいです(笑)
たとえば、浦添間切安波茶村だったら、安波茶村を出ると原っぱや山とか谷とか川とか森とか、
そういう自然があって、その自然の中を通る道を歩いていくと、隣村の沢岻村がある、という感じです。
なんか今では都市化が進んで村と村がくっついてしまったので、想像しにくいですけどね。
新城俊昭『高等学校 琉球・沖縄史』東洋企画、2001より
■首里・那覇について
上の話は間切の話ですが、次は首里と那覇についてです。
と、その前に、首里と那覇は年代によってコロコロかわるので・・・
とりあえず、漠然としたイメージだけを書きます(笑)
まず、首里と那覇は都市部なので、間切とは違う特別行政区みたいな感じです。
イメージするならば各県に対する東京都。
琉球の王都であった首里は、三つの平等(フィラ)に分かれていました。
三つあわせて首里三平等(スイミフィラ)と呼んだりします。
三平等とは、
西之平等(ニシヌフィラ)、南風之平等(フェーヌフィラ)、真和志之平等(マージヌフィラ)です。
で、その各平等の中に当蔵村・金城村・赤田村・山川村というように
今でも首里の地名でおなじみの村々が存在しました。
首里の中の南之平等の中の当蔵村って感じです。
誤解を恐れずに東京都に例えると、
東京都 渋谷区 原宿みたいな感じだとすれば
首里都 南区 当蔵になります。
■古地図について
沖縄の古地図の多くは戦争で焼けてしまったんですが、いくつか現存しています。
まず、1700年代初期の首里を描いた「首里古地図」(沖縄県立図書館蔵)
県立図書館のデジタル書庫で部分的に見ることができます。
※ただ、これは戦前に作られた複製で現物は焼けてしまったんですが・・・。
あと、屋敷図でいえば「久茂地村屋敷図」という地図も現存しています。
それから、屋敷図ではないですが、もっと広域を描いた地図だと
「琉球国惣絵図」(沖縄県立博物館蔵)などがあります。
琉球国惣絵図
エメラルドグリーンが真和志間切、薄い紫が南風原間切、青が小禄間切、赤が豊見城間切
真和志間切の北東側に黄色で首里が、南西側に赤色で那覇が描かれている。
『建設情報誌 しまたてぃ No46』より
参考:
金城善「近世琉球を描いた絵地図」
県立博物館学芸員コラム
それから、当時の様子を想定して作られた地図には
『那覇市史 那覇の民俗 資料篇 第2巻中の7』の付録地図「那覇の歴史民俗地図」や、
嘉手納宗徳氏が製作した「那覇読史地図」(宮城栄昌・高宮廣衞編『沖縄歴史地図 歴史編』などに収録)などが有名どころです。
「那覇の歴史民俗地図」は首里・那覇・真和志・小禄の各地域の昭和初年ごろを想定、
「那覇読史地図」は明治期の那覇を想定して作られています。
※これらの地図は図書館などで見ることができます。
文責:saku
更新がまた滞っていました。すいません。
さて、かなり私的なことで申し訳ないんですが、
先日、インターネットラジオ番組(USTREAM配信)の
OUR OKINAWA~わったーばんどー!!~さんに出演してきました。
準レギュラーとして沖縄の歴史や文化についてお話することになったのですが、
5月25日放送では、5月20日が那覇市制89周年ということで
那覇市や沖縄の行政区分に関する話をしてきました。
準備段階では何も考えていなかったんですが、
地図を見ながらじゃないと理解しにくいことを
ラジオでネタにするって無謀ですね。
ラジオなめててすいません。
さて、そういうことでツイッターでも分かりにくいという意見を受けまして、
この場を借りて補足用の地図を載せたいと思います。
※急いでスキャンしました。本当はイラレで作りたいんですけどね~。時間が・・・。
で、ついでにシマミグイブログの記事にもなるよう解説も付けたいと思います。
■昔の海岸線について
百聞は一見にしかずです。
1700年ごろの那覇の海岸線
沖縄の土木遺産編集員会編『沖縄の土木遺産』ボーダーインク、2005より
同じ範囲で現在の地図(Yahoo!地図)と比較
■間切(まぎり)について
間切とは、古琉球期から1908年(明治41)に「沖縄県島嶼町村制」が施行されるまで続いた
沖縄独自の行政区画単位です。
日本国に各都道府県(埼玉県、茨城県、千葉県など)があるように、
アメリカに各州(ワシントン州、カリフォルニア州、テキサス州など)があるように
琉球には各間切(浦添間切・北谷間切・名護間切・今帰仁間切など)がありました。
そして、その各間切の中に各村(浦添間切だったら安波茶村・小湾村・屋富祖村・内間村など)があるという感じです。
この各村々なんですが、古琉球期から戦前にかけては
ドラクエの世界をイメージしていただければいいです(笑)
たとえば、浦添間切安波茶村だったら、安波茶村を出ると原っぱや山とか谷とか川とか森とか、
そういう自然があって、その自然の中を通る道を歩いていくと、隣村の沢岻村がある、という感じです。
なんか今では都市化が進んで村と村がくっついてしまったので、想像しにくいですけどね。
新城俊昭『高等学校 琉球・沖縄史』東洋企画、2001より
■首里・那覇について
上の話は間切の話ですが、次は首里と那覇についてです。
と、その前に、首里と那覇は年代によってコロコロかわるので・・・
とりあえず、漠然としたイメージだけを書きます(笑)
まず、首里と那覇は都市部なので、間切とは違う特別行政区みたいな感じです。
イメージするならば各県に対する東京都。
琉球の王都であった首里は、三つの平等(フィラ)に分かれていました。
三つあわせて首里三平等(スイミフィラ)と呼んだりします。
三平等とは、
西之平等(ニシヌフィラ)、南風之平等(フェーヌフィラ)、真和志之平等(マージヌフィラ)です。
で、その各平等の中に当蔵村・金城村・赤田村・山川村というように
今でも首里の地名でおなじみの村々が存在しました。
首里の中の南之平等の中の当蔵村って感じです。
誤解を恐れずに東京都に例えると、
東京都 渋谷区 原宿みたいな感じだとすれば
首里都 南区 当蔵になります。
■古地図について
沖縄の古地図の多くは戦争で焼けてしまったんですが、いくつか現存しています。
まず、1700年代初期の首里を描いた「首里古地図」(沖縄県立図書館蔵)
県立図書館のデジタル書庫で部分的に見ることができます。
※ただ、これは戦前に作られた複製で現物は焼けてしまったんですが・・・。
あと、屋敷図でいえば「久茂地村屋敷図」という地図も現存しています。
それから、屋敷図ではないですが、もっと広域を描いた地図だと
「琉球国惣絵図」(沖縄県立博物館蔵)などがあります。
琉球国惣絵図
エメラルドグリーンが真和志間切、薄い紫が南風原間切、青が小禄間切、赤が豊見城間切
真和志間切の北東側に黄色で首里が、南西側に赤色で那覇が描かれている。
『建設情報誌 しまたてぃ No46』より
参考:
金城善「近世琉球を描いた絵地図」
県立博物館学芸員コラム
それから、当時の様子を想定して作られた地図には
『那覇市史 那覇の民俗 資料篇 第2巻中の7』の付録地図「那覇の歴史民俗地図」や、
嘉手納宗徳氏が製作した「那覇読史地図」(宮城栄昌・高宮廣衞編『沖縄歴史地図 歴史編』などに収録)などが有名どころです。
「那覇の歴史民俗地図」は首里・那覇・真和志・小禄の各地域の昭和初年ごろを想定、
「那覇読史地図」は明治期の那覇を想定して作られています。
※これらの地図は図書館などで見ることができます。
文責:saku
Posted by シマミグイ at 03:42│Comments(0)
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