2010年06月08日
瀬長島いまむかし
実は最近、インターネットラジオ番組「OUR OKINAWA ~わったーばんどー!!~」さんの方に
ちょくちょくお邪魔させていただいています。
毎週火曜日の23時から↓で視聴できます。
http://www.ustream.tv/channel/bingobingo-radio-show
こちらにブログもあります。
http://ourokinawa.ti-da.net/e2873710.html
さてさて、前回出演時は瀬長島の歴史について話させていただきました。
というのも、実は来月から瀬長島はホテル建設に入るそうで・・・。
新聞に載っていた完成予想図を見ると島全体がホテルになるようです。
昔から親しんだ島がなくなってしまうのは寂しいですね。

昭和20年の瀬長島(米軍撮影空中写真 沖縄県教育委員会『沖縄県史県土のすがた図説編』より)

現在の瀬長島(平成16年撮影 豊見城市役所税務課所蔵)
■瀬長島概要
瀬長島は沖縄本島より600mのところに位置しています。
標高約33m、周囲が1.5kmの低島です。
島の西側に海岸段丘、島の東側が海岸低地となっています。
別名、アンジナ、トゥイナカンシマ(鳥鳴かん島)と呼ばれていました。
アンジナはアンジのいるナーという意味か、
あるいはアンジのいる砂の島(アンジシナジマ)の意味だそうです。
ハブが多く、ニワトリを飼うと必ずハブに襲われたので、ニワトリを飼わなかったといいます。
その他、古文書には「砂島」というイメージででてきます。
■瀬長島と瀬長グスクの歴史
いつ頃から瀬長島に村落ができたのかよくわかっていません。
しかし、グスク時代に瀬長グスクがあって、瀬長按司がいたので、
少なくともグスク時代には人が住んでいたと考えられます。
古くは我那覇から住民が移り住み、村を形成したそうです。
また、伝承ではアマミキヨが瀬長島に降りたという伝承や、
アマミキヨの子が住んでいて、
その骨が瀬長グスクの下に埋葬されているという伝承があります。
(アマミキヨは琉球の開闢(かいびゃく)神。)
島の中央部には瀬長グスクがあり、瀬長按司の居城といわれています。
近世の文書によると、瀬長按司は中山に滅ぼされたといいます。
発掘調査では青磁や白磁、グスク系土器が出土しています。
その後、近世になると「萱原小山(かやはらこやま=ススキの原っぱの小山=荒廃)」
と言われているように、近世期には対岸に集落が移動していて、
瀬長島は無人島でした。(『琉球国由来記』)
冊封使の琉球レポートにも瀬長島は無人島と書かれています。
瀬長島は文学のテーマとしても取り上げられ、
1719年に琉球を訪れた中国の使節が五言律詩をのこしていたり、
琉歌に詠まれていたり、組踊「手水の縁」の舞台にもなっています。
19世紀になってから再び人が移り住むようになって、1903年の人口は91名。
戦前はウミガメが産卵したといわれる綺麗な砂浜がありました。
また、戦前までグスクの石積みがあったそうです。
戦後、島全体を米軍が接収し米軍基地となったので住民は島へ帰れず、
以後、再び無人島となりました。
戦後の基地建設で地形が変わったため、多くの遺物・遺跡等が失われました。
1977年に返還されたましたが、
那覇空港を離発着する航空機の騒音もあり跡地利用が進みませんでした。
那覇市にも近く海中道路で結ばれているので、
野球やドライブ、釣りなどを楽しむ行楽客でにぎわっています。
■瀬長島の拝所とカー
拝所には按司墓、三様御殿(ミサマウドゥン)、上ヌウマンチュー、下ヌウマンチュー、
竜宮継宮(リュウグチング)、ウタキなどがあります。ウマンチューはアマミキヨを祀ったもの。
これらの位置は地形改変によって現在どうなっているのかわからないが、
設置者不明の拝所がいくつかあって、その拝所の位置が戦前の拝所の位置と近いので、
ある程度の位置を確認できたそうです。
確認できたのは、上ヌウマンチュー、下ヌウマンチュー、リュウグチング。
按司墓は現在、コンクリートブロックで丘陵の中腹にあるが、本来の場所ではないそうです。
カー(井戸)は按司井、波平井、知念井などがあります。
小さい島の割には水は豊富だったようです。
戦後に島が米軍に接収されてしまったので、
島にあった拝所は対岸のアカサチムイの所に遥拝所を作って、そこを拝んでいます。
★参考文献★
『豊見城村史』豊見城村役所、1964
『角川日本地名大辞典47 沖縄県』角川書店、1986
『沖縄県の地名』平凡社、2002
※『豊見城市史 民俗編』豊見城市役所、2008
に充実した情報があったんですが、ラジオの時間までにこの本を参照することできませんでした。
ぜひこの本も参照してみてくださいねー。
文責:saku
ちょくちょくお邪魔させていただいています。
毎週火曜日の23時から↓で視聴できます。
http://www.ustream.tv/channel/bingobingo-radio-show
こちらにブログもあります。
http://ourokinawa.ti-da.net/e2873710.html
さてさて、前回出演時は瀬長島の歴史について話させていただきました。
というのも、実は来月から瀬長島はホテル建設に入るそうで・・・。
新聞に載っていた完成予想図を見ると島全体がホテルになるようです。
昔から親しんだ島がなくなってしまうのは寂しいですね。

昭和20年の瀬長島(米軍撮影空中写真 沖縄県教育委員会『沖縄県史県土のすがた図説編』より)

現在の瀬長島(平成16年撮影 豊見城市役所税務課所蔵)
豊見城市教育委員会『瀬長グスク他範囲確認調査報告書』より
■瀬長島概要
瀬長島は沖縄本島より600mのところに位置しています。
標高約33m、周囲が1.5kmの低島です。
島の西側に海岸段丘、島の東側が海岸低地となっています。
別名、アンジナ、トゥイナカンシマ(鳥鳴かん島)と呼ばれていました。
アンジナはアンジのいるナーという意味か、
あるいはアンジのいる砂の島(アンジシナジマ)の意味だそうです。
ハブが多く、ニワトリを飼うと必ずハブに襲われたので、ニワトリを飼わなかったといいます。
その他、古文書には「砂島」というイメージででてきます。
■瀬長島と瀬長グスクの歴史
いつ頃から瀬長島に村落ができたのかよくわかっていません。
しかし、グスク時代に瀬長グスクがあって、瀬長按司がいたので、
少なくともグスク時代には人が住んでいたと考えられます。
古くは我那覇から住民が移り住み、村を形成したそうです。
また、伝承ではアマミキヨが瀬長島に降りたという伝承や、
アマミキヨの子が住んでいて、
その骨が瀬長グスクの下に埋葬されているという伝承があります。
(アマミキヨは琉球の開闢(かいびゃく)神。)
島の中央部には瀬長グスクがあり、瀬長按司の居城といわれています。
近世の文書によると、瀬長按司は中山に滅ぼされたといいます。
発掘調査では青磁や白磁、グスク系土器が出土しています。
その後、近世になると「萱原小山(かやはらこやま=ススキの原っぱの小山=荒廃)」
と言われているように、近世期には対岸に集落が移動していて、
瀬長島は無人島でした。(『琉球国由来記』)
冊封使の琉球レポートにも瀬長島は無人島と書かれています。
瀬長島は文学のテーマとしても取り上げられ、
1719年に琉球を訪れた中国の使節が五言律詩をのこしていたり、
琉歌に詠まれていたり、組踊「手水の縁」の舞台にもなっています。
19世紀になってから再び人が移り住むようになって、1903年の人口は91名。
戦前はウミガメが産卵したといわれる綺麗な砂浜がありました。
また、戦前までグスクの石積みがあったそうです。
戦後、島全体を米軍が接収し米軍基地となったので住民は島へ帰れず、
以後、再び無人島となりました。
戦後の基地建設で地形が変わったため、多くの遺物・遺跡等が失われました。
1977年に返還されたましたが、
那覇空港を離発着する航空機の騒音もあり跡地利用が進みませんでした。
那覇市にも近く海中道路で結ばれているので、
野球やドライブ、釣りなどを楽しむ行楽客でにぎわっています。
■瀬長島の拝所とカー
拝所には按司墓、三様御殿(ミサマウドゥン)、上ヌウマンチュー、下ヌウマンチュー、
竜宮継宮(リュウグチング)、ウタキなどがあります。ウマンチューはアマミキヨを祀ったもの。
これらの位置は地形改変によって現在どうなっているのかわからないが、
設置者不明の拝所がいくつかあって、その拝所の位置が戦前の拝所の位置と近いので、
ある程度の位置を確認できたそうです。
確認できたのは、上ヌウマンチュー、下ヌウマンチュー、リュウグチング。
按司墓は現在、コンクリートブロックで丘陵の中腹にあるが、本来の場所ではないそうです。
カー(井戸)は按司井、波平井、知念井などがあります。
小さい島の割には水は豊富だったようです。
戦後に島が米軍に接収されてしまったので、
島にあった拝所は対岸のアカサチムイの所に遥拝所を作って、そこを拝んでいます。
★参考文献★
『豊見城村史』豊見城村役所、1964
『角川日本地名大辞典47 沖縄県』角川書店、1986
『沖縄県の地名』平凡社、2002
※『豊見城市史 民俗編』豊見城市役所、2008
に充実した情報があったんですが、ラジオの時間までにこの本を参照することできませんでした。
ぜひこの本も参照してみてくださいねー。
文責:saku
Posted by シマミグイ at 19:11│Comments(0)
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